草の上をわたる風のように

近藤幸夫

慶応義塾大学准教授

2008 年

 

私は今三点の作品を見ながらこの文章を書こうとしている。ひとつは、1986年のインスタレーション作品の記録写真、もうひとつは誰も座っていない椅子を描いた1992年の銅版画、そして、最後は草原の上を風が吹いている様子を描いたドローイングのように軽やかな2006年の銅版画である。これらはすべて岡本裕子の作品だがそれぞれまったく違った雰囲気をもっている。最初のインスタレーションは華やいだ快活さを、二番目の銅版画は内省的で重厚な雰囲気を、そして最後の作品は見る者に夏の終わりのメランコリックな気分を思い起こさせる。私はこれらの点をつないで一人の表現者が辿った道筋を明らかにしなければならない。しかし、その結果どれほど本質的で重要な問題がそこに含まれていても、それを私たちは彼女の口から直接確かめることはできない。それは永遠に推測の域をでることはないだろう。しかし、そのままにしておけば彼女の真摯な取り組みはいつか人々の記憶のなかから消えしまうだろう。私は一人の証言者としても言葉を紡がなければならない。

私が、岡本裕子の作品を初めて見たのは80年代の半ばだった。当時、日本の美術界は大きく変わりつつあった。市場性をもたず仲間内の高邁な議論に明け暮れていた70年代の閉鎖的な雰囲気から一転して、若いアーティストたちは海外の新表現主義絵画の影響を受けつつ独特のインスタレーションを展開していた。ちょうど日本は後にバブルと呼ばれる好景気のまっただ中にあり、彼らも、作品自体が売れることはなくても、建物の内装デザインの仕事などさまざまなかたちで恩恵を受けていた。そのような楽天的で快活な雰囲気を反映するように、岡本もこの時期、友人の富田有紀子の鮮やかな色のインスタレーションの間に垣根のような立体を配するといった屈託のない作品を作っていた。それは彼女が版画家であることをほとんど感じさせない作品であった。

間もなく彼女の作品は、本来の自分を取り戻すかのように重厚で内省的な方向へと進み始める。モチーフとしてセーターと椅子が選ばれた。セーターは編み目のひとつひとつまでが細密に描写され、椅子は表面の細かい幾何学紋様が緻密に描写されていた。これらの作品は一見何気なくみえるもの、椅子の表面の丸みや立体感を出すためには腐食を繰り返し模様のトーンを調整するといった気の遠くなるような作業が必要であった。私は、その職人的ともいえる根気強さに驚嘆するとともに、そのプロセスにおいて岡本が素材としての銅板と対話しているよう思われた。その後、私はかつて働いていた東京国立近代美術館の展示場で彼女が工具を片手に展示場をチェックしているのに出会った。当時、彼女は展示のアートディレクターのような仕事をしていていた。パリに来てからも日本からプロ用の工具を送ってもらい便利だと嬉々としているのをみて、その職人的な姿に物質と対峙するこの版画家の資質をみたように思った。

パリに来てしばらくしてから彼女は「樹が描きたい」と言った。当時、私はその真意が汲み取れなかった。岡本の椅子の作品はすでにかなりの完成度を示しており、さらに高い精神的境地へと向かおうとしていた。背景に黒が使われているわけではないが、それらは深い闇を感じさせるものであった。それは深い精神的な闇であり、内省的で厳しく孤独な心を感じさせた。それに比べて彼女が始めようとしていた樹の作品はあまりにも未完成でそれほど個性的でもなかった。その時、私は岡本に、版画は彫刻のように素材の物質性と向き合う作業であり、表現に対する摩擦係数のようにはたらく銅板の物質性とせめぎ合うことが重要だと思うと言った。そしてそれを強く意識して制作してみてはどうかとも言った。それはもちろん私が岡本の作品のそのような部分を評価していたからにほかならない。しかし、彼女はあまり納得していないようだった。今考えれば私は、その時、全く逆方向のアドバイスをしていた。

今、私は2006年の作品をみている。それほど大きくない横長のエッチングで題名は、 « Un Instant II » である。一陣の風が草原の上を吹き抜けていく様子が単純化、様式化された描き方で表されている。草が左から右へなびいていることから風の向きがわかる。夏の終わりにこのように急に太陽が雲に隠れ一陣の風が吹く情景と出会うことがある。季節が移りつつあることを感じる一瞬である。岡本はこの作品を制作するしばらく前から毎日一枚ボールペンでドローイングを描いている。そこで描かれるのは、草むら、樹、草花である。私も経験したが、フランスにいるとよく空をみる。夏の青い空や季節が変わるころの早い雲の流れ、そして眼を転じて芽吹いたり葉が落ちたりする街路樹の様子も見る。岡本もフランスで一人暮らしを始めておそらく同じような感覚を味わったことだろう。そこから日記のようなドローイングが始まった。このエッチング作品は、そのようなドローイングのもつ雰囲気、線の即興性や軽やかさをよく伝えている。岡本が「樹を描きたいと」言ったときに彼女が考えていたのは、ものとしての樹を描くのではなく樹をみている彼女の気分を表したかったのではなかろうか。それは、椅子の仕事の思い詰めたような閉塞感とは違い、軽やかで開放感に満ちた表現でもある。版という物質と対峙することから、その存在を感じさせない洒脱さへ。しかし、それを実現するためにはさらに高い技術が必要だったことだろう。画廊をまわっていて近くに来たので仕事中の彼女に電話したことがある。「これから腐食を始めるから会っている時間がないの」といわれた。岡本は何時でもアトリエにいてよく働いていた。そしてやっと自分で納得のいく作品に近づいたときに彼女は逝ってしまった。 »Un Instant II » の左上から斜め右下へ引かれた何本もの消え入りそうに微妙で繊細な風をあらわす線がこの版画家が最終的に目指していたもののすべてを語っているように思われてならない。

Un Instant II